カット中に聴く戦争体験記 1

私は、仕事を通して約500名の戦争体験者にお会いします。

今では何事もなかったように

老人ホームにいるおばあちゃんも、

現代では考えられない程、

壮絶な時代を乗り越えています。

 

戦後70年が経ち、語り部も減っている中、

私は毎日の様に、それぞれの当時の原爆体験を

お聴き出来る環境にいます。

とても貴重です。

 

それが「聞いて終わり」とならないよう、

これからの日本が原爆の脅威を忘れないよう、

少しずつですが、

お聴きした戦争体験を

紹介していきたいと思っています。

 

 

戦争体験記 1『魚雷に救われた』

 

長崎に原爆が投下される8月9日の朝、

当時20歳、茂里町の魚雷生産工場で働いていた。

つくっていた魚雷は、中に大人4~5人が入るくらい

大きいものだった。

そして完成した魚雷の内壁を検査するため、

中に入った。

 

その瞬間、

強い地震のようなものを感じた。

『何!?』

と思い、外に出ると、何もかもがめちゃくちゃになっていた。

(その時は知らなかったが、それが原爆だった)

(魚雷の鉄の壁に、守られていた)

 

外に出て動揺していると、

また、とても強い風が吹いた。

(原爆の後、また落ちてきた爆弾の爆風だった)

地面に落ちていたガラス片や材木などが舞い上がり、

身体中に突き刺さった。

 

ケガをしたので、治療したいと思い、自宅の浜の町へ行く為、

電車を待った。

…が、こない。

よく見ると、途中で電車が停まっていたので、飛び乗った。

中には数人乗客が乗っていた。

しかし、待っていても発車しないので、

運転手に急ぐように話そうとすると、

その運転手は立ってハンドルを握ったまま死んでいた。

よく見ると、乗客も、時間が止まったように

立ったまま、座って足を組んだまま、死んでいる。

ゾッ!として、

電車を飛び降りた。

 

そこで、やっとわかった。

「これが3日前に広島に落ちた原爆だ!」と悟った。

落ち着いて辺りをよく見ると、口では表せないほど悲惨な状況になっていた。

それから、「諏訪の防空壕に入れ!」と言われ、

体の動く人は歩いて諏訪神社方向に向かった。

 

そしてなんとか、

諏訪の防空壕にたどり着いたと思ったその時、

突然アメリカの飛行機が飛んできて、

一緒に歩いてきた人を機関銃で「ダダダダダダ」と

皆殺しにした。

目の前でたくさんの人が撃たれた。

その中、「白い服は目立つぞ!」

と聞こえた。

とっさに着ていた白いシャツを脱ぎ、

そこにあった茶畑の端に隠れ、なんとか難を逃れた。

 

翌日からは、

死体を焼き場に持っていく毎日。

その焼ける臭いがとても嫌だった。

 

ガラス片を取り除くために頭はそりあげ、

全身からガラスを全て抜くのに3年もかかった。


 

この時代の現実を忘れず、

聴いてひどいねで終わりではなく、

次の世代に語れるようにならないといけないと思います。